法華経の智慧──二十一世紀の宗教を語る に学ぶ人法一箇
教学要綱では宗門教学として排除された「人法一箇」だが、それはそのまま日蓮宗の亜流となることを意味している。
それでは、池田先生はこの「人法一箇」をどのようにご指導されているか、「法華経の智慧」より学びたい。
序文より
「哲学不在の時代」を超えて
池田名誉会長 こちらこそ、よろしく。
いよいよ、本格的に「二十一世紀の宗教」を語るべき時代に入りました。今、人類は共産主義崩壊、哲学不在の時代の彼方の山に目を向けながら、新しい大哲学を求めている。
釈尊の師は南無妙法蓮華経如来
名誉会長 無始無終で慈悲の活動を続ける、その大生命体を「師」として、「人間・釈尊」は人間のまま仏となったのです。そして、悟ったとたん、三世十方の諸仏は皆、この人法一箇の「永遠の仏」を師として仏になったのだとわかったのです。
寿量品は小乗と大乗を統合
名誉会長 大聖人は、私たち末法の凡夫が、御本尊に妙法を唱えることで、「常住此説法の仏」と一体になれるようにしてくださったのです。
人法一箇の御本尊です。“人”の側面は、久遠元初の自受用報身如来。“法”の側面は、事の一念三千です。だから、戸田先生は、久遠元初の仏のことを「一念三千様」とも言われていた。
釈尊の真意は「一念三千を見よ!」
名誉会長 南無妙法蓮華経は法であるが、同時に仏身なのです。人法一箇です。ここが大事なところです。
「法」といっても「人(仏)」を離れた法は、「理」だけの存在です。実際には——「事」の上では——仏の智慧を離れた法というのはないのです。
「御本尊に随順」が本義
名誉会長 釈尊自身も仏になした“仏因”の法を本尊にせよというのが「法華経の心」です。
結論すれば、人法一箇の御本尊に「随順」していく信心が「隋」であり、その功徳が「随喜功徳」です。
高橋入道殿御返事(1458㌻)
名誉会長 飛躍した言い方になるが、緒論から言えば、人法一箇の南無妙法蓮華経如来の功徳を賛嘆しているのです。
「久遠実成の釈尊」も「上行菩薩」も宇宙の根本仏であられる南無妙法蓮華経如来の「迹(影)」です。
南無妙法蓮華経如来は、無始無終の仏であり、宇宙生命そのものであり、三世十方の一切の諸仏の根源であり、十界本有、十界互具の御当体です。
釈尊が最後に伝えたかったこと
名誉会長 その大生命が、凡夫である「人間」に顕現するという事実です。
ここに、生きた法華経がある。
この一点を、どう表現し、どう多くの人々に開いていくか。ここに全仏教史の歩みがあり、進歩があったと言ってよい。
その観点から言えば、大乗仏教の出現は必然性があったと思う。釈尊が入減する。遺言は何か。
「自らを島とし、自らを依り処として、他を依り処とするなかれ。
法を島とし、法を依り処として、他を依り処とするなかれ」
生死の苦悔の激流の中で、「自己」と「法」だけを依り処として、生き抜きなさいという遺言です。
この「自己」を探究し、「法」を探究することが、釈尊滅後の仏教徒のつとめとなったのです。
須田 人法で言えば、自己は「人」、法は「法」です。
二つの探求の究極が、人法一箇の「永遠の仏」即「永遠の法」だったのですね。
本当の「仏」はどこにいるか
名誉会長 ともかく「広宣流布に働いている人」を尊敬することです。
どんな気どった有名人よりも、庶民まる出しで、わき目もふらず、広布に働いている人が尊貴なんです。何千万倍も尊貴です。
格好ではありません。地位ではない。学歴ではない。
「不幸な人を幸福にしていこう!」
「広宣流布をやっていこう!」
その「心」の強さが尊いのです。
「心」は「心法」であり「法」です。
宇宙も「妙法」の当体です。宇宙全体が「妙法」という大生命だ。
わが「心法」を「妙法広宣流布」に向け、その一点に帰命していくとき、色心ともに妙法と一体の自分になっていくのです。
広い意味で、「人法一箇」の軌道に入っていく。
斉藤 「妙法」の軌道といっても、具体的には「広宣流布」の軌道ということですね。
名誉会長 もつと具体的に言えば、広宣流布をしているのは創価学会だけなのだから、「学会活動」の軌道ということです。
広布の組織で、本当に苦労している人が、「人法一箇」の軌道に入っているのです。
「事顕本」と「理顕本」
名誉会長 しかし永遠性といっても、完全に永遠ではない。どこまでも「有始(始めがある)」の仏です。 だから無始無終の宇宙即妙法と一体とは言えない。“すき間”がある。ゆえに、文上の仏は「法勝人劣(法が勝れ、人が劣る)」です。
寿量品の真意は、この「永遠性の仏」を通して、完全なる「永遠の仏(久遠元初の自受用身)」を示唆するところにあったのです。
この「永遠の仏」は無始無終の妙法と一体です。宇宙の大生命そのものであり、「人法一箇」です。