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御本尊の相貌を、特定の政治理念や政党の正当化に用いること自体が、根本的な冒涜であり、仏法破壊です。

2026年2月16日  2026年2月16日 

御本尊の相貌を、特定の政治理念や政党の正当化に用いること自体が、根本的な冒涜であり、仏法破壊です。


御本尊は、

政治思想の比喩でもなければ、

理念を美化するための象徴装置でもありません。

御本尊は「中道」など象徴していない


日蓮大聖人の仏法は

権力にも迎合せず、数にも屈せず、正法を貫く立場です。


それを政治的中道と重ねることは、教学的に完全に誤りです。

御本尊を語っているようで、御本尊を解体している。

これ以上の邪義はありません。 


狂った「第三文明」をとっておく



御本尊の相貌を政治理念「中道」の正当化に持ち出すこと自体が、日蓮仏法の枠組みを逸脱しています。


御本尊の相貌が示しているのは、

「何でも包摂すればよい」ではありません。

ましてや、現実政治の路線や政党理念を後付けで肯定するための比喩装置ではない。


法華経会座における提婆達多の登場は、

「悪すら無条件に是認する」ことを意味していません。

法に背くものは法に照らされ、転じられてこそ包摂されるのであって、

誤りを誤りのまま温存する思想ではない。


「思想・宗教の違いなど関係はない」という言い回しは、一見寛容に見えて、

実は法の規範性そのものを空洞化させています。


さらに言えば、

御本尊は政治理念の象徴ではありません。

御本尊とは、末法において

・何が正で

・何が邪で

・何を破し、何を立てるのか

を明確に示す、絶対的な法の鏡です。


それを

「中道改革連合の『中道』に込められた理想であるべきだ」

などと読み替える行為は、

信仰の側から政治を照らすのではなく、

政治の都合で信仰を再解釈する倒錯にほかなりません。


「最大多数の人々が思いを託せる政党を育てる」ことと、

御本尊の相貌を持ち出して正当化することは、まったく別問題です。


政治は政治として、

支持も批判も、結果も責任も負えばよい。

しかし、御本尊を

「包摂」「中道」「価値創造」という耳障りのよい言葉で曖昧化し、

現行路線を免罪することは、

信仰の名を借りた最大級の論点すり替えです。


日蓮仏法は、

「寄せ集めの調和」ではなく、

法に照らして破邪顕正する宗教であったはずです。

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