釈迦仏は結局、架空の迹仏
2026年1月8日
2026年1月8日
『狸さんのブログ』で
「釈迦仏は結局、架空の迹仏」の投稿がありました。内容を以下に掲載します。
釈迦仏は、結局、架空の迹仏
釈迦を永遠の仏とし、日蓮を釈迦の「使い」とする『教学要綱』の路線に随って、「聖教新聞」「大白蓮華」や青年向けの電子版などの媒介で会員を釈迦本仏へ導こうとする洗脳作業が続けられている。しかし、釈迦を日蓮の「主人」と見ること自体が根本的な間違いだ。
そもそも法華経という経典自体が、紀元一世紀か二世紀にインドで作成されたもので、実際に生きていた釈迦(ゴータマ・シッダルタ、生没年は紀元前463年~383年など多数の説がある)が説いたものでない。釈迦自身は根源の法を悟達して仏となったが、彼が説いた教えは原始仏典『スッタニパータ』などに見る通り、極めて素朴なものだった。それでも万人平等の尊厳(まだ「仏性」などという言葉はなかった)を説いた釈迦の教えは権威的・差別的なバラモン教や倫理否定の六師外道などに飽き足らない当時の人々の心を捉え、王族から庶民まで、多くの支持を集めて初期教団が形成された。その後に生じた小乗仏教・大乗仏教の対立を止揚して、万人平等の成仏という仏教本来の理想を実現しようと編纂されたのが法華経である。
大乗経典に説かれる仏は、体が金色で、眉間白毫相など超人的・神秘的特質を具えた「色相荘厳」の姿をとって登場する。それは、まだ神秘的・神話的世界観の中に生きていた当時のインドの人々を引き付けるために取り入れられた手法(方便)であることは言うまでもない。そこで法華経寿量品に説かれる五百塵点劫成道の釈迦仏も、大乗仏典の通例の通り、三十二相の徳相を具え、諸の神通力を持つ色相荘厳の仏である。実際に生きていた釈迦と経典に説かれた釈迦仏は別物であり、それを混同することは大きな誤りである。
実際には、体が金色で眉間の白毫から光を発する超人的存在など、現実にありうる道理はない。要するに寿量品が説く久遠実成の釈迦仏といっても、現実に存在するものではなく、経典制作者が根源の妙法によって一切諸仏が成道したという法理を仏身の視点から表現するために創造した一つの観念に過ぎない。他の大乗経典に説かれる薬師如来や阿弥陀如来、大日如来などの諸仏と同様、実際には宇宙のどこにも実在しない架空のものなのである。その点を日蓮は看破して「諸法実相抄」で法華経の釈迦・多宝も迹仏であることを次のように説いている。
「釈迦・多宝の二仏というも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御座しまし候え。経に云わく『如来の秘密・神通の力』これなり。『如来の秘密』は体の三身にして本仏なり。『神通の力』は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり。しかれば、釈迦仏は我ら衆生のためには主・師・親の三徳を備え給うと思いしに、さにては候わず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。その故は、如来というは、天台の釈に『如来とは、十方三世の諸仏、二仏、三仏、本仏・迹仏の通号なり』と判じ給えり。この釈に『本仏』というは凡夫なり、『迹仏』というは仏なり」(一七八九頁)
経典に説かれる諸仏はいずれも仏の働き(用)を象徴的に示すための観念であり、どこにも実体があるものではない。現実に存在する仏(本仏)は妙法を受持する凡夫しかないのである。この「諸法実相抄」の文は従来の仏教の観念を転換させたものであり、その意義は実に重大である。経典上の仏は架空の迹仏であり、妙法を行ずる凡夫こそが本仏であるという「凡夫即極」の法理こそ、従来の釈迦仏法の限界を突き抜けた日蓮仏法の真髄である。その哲理は例えば「当体義抄」には「能居・所居、身土、色心、俱体俱用、無作の三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中のことなり」(六一七頁)と説かれている。また「御義口伝」には「末法の『仏』とは凡夫なり、凡夫僧なり。『法』とは題目なり。『僧』とは我ら行者なり。仏とも云われ、また凡夫僧とも云わるるなり」(一〇六七頁)と述べられている。
日興門流においては南無妙法蓮華経を初めて弘通した日蓮を南無妙法蓮華経と一体の久遠元初自受用身とするが、自受用身は日蓮だけではなく、妙法を受持した万人が久遠元初自受用身とされる(日寛「観心本尊抄文段」)。日蓮仏法においては万人が日蓮と同じく南無妙法蓮華経の当体であり、根源仏なのである。従って、日蓮を久遠元初自受用身とするのは日蓮の神秘化・神格化であるなどと批判するのは全く見当外れの誤謬であり、むしろ色相荘厳の仏を永遠の本仏として崇拝する態度こそが神秘思想に傾斜するものとなろう。
経典制作者が作り上げた観念に過ぎない釈迦仏を根本視し、それによって救いを得ようとする在り方は阿弥陀如来や大日如来に救済を求める態度と同様に完全に無意味であり、生命を歪める結果しかもたらさない。日蓮を釈迦の「使い」として貶める態度は、曼荼羅本尊の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」と大書し、釈迦・多宝を左右の脇士の位置に置いた曼荼羅本尊の相貌と完全に違背している。それは日蓮仏法を根底から破壊する大謗法と言わなければならない。
実際には、体が金色で眉間の白毫から光を発する超人的存在など、現実にありうる道理はない。要するに寿量品が説く久遠実成の釈迦仏といっても、現実に存在するものではなく、経典制作者が根源の妙法によって一切諸仏が成道したという法理を仏身の視点から表現するために創造した一つの観念に過ぎない。他の大乗経典に説かれる薬師如来や阿弥陀如来、大日如来などの諸仏と同様、実際には宇宙のどこにも実在しない架空のものなのである。その点を日蓮は看破して「諸法実相抄」で法華経の釈迦・多宝も迹仏であることを次のように説いている。
「釈迦・多宝の二仏というも用の仏なり。妙法蓮華経こそ本仏にては御座しまし候え。経に云わく『如来の秘密・神通の力』これなり。『如来の秘密』は体の三身にして本仏なり。『神通の力』は用の三身にして迹仏ぞかし。凡夫は体の三身にして本仏ぞかし。仏は用の三身にして迹仏なり。しかれば、釈迦仏は我ら衆生のためには主・師・親の三徳を備え給うと思いしに、さにては候わず、返って仏に三徳をかぶらせ奉るは凡夫なり。その故は、如来というは、天台の釈に『如来とは、十方三世の諸仏、二仏、三仏、本仏・迹仏の通号なり』と判じ給えり。この釈に『本仏』というは凡夫なり、『迹仏』というは仏なり」(一七八九頁)
経典に説かれる諸仏はいずれも仏の働き(用)を象徴的に示すための観念であり、どこにも実体があるものではない。現実に存在する仏(本仏)は妙法を受持する凡夫しかないのである。この「諸法実相抄」の文は従来の仏教の観念を転換させたものであり、その意義は実に重大である。経典上の仏は架空の迹仏であり、妙法を行ずる凡夫こそが本仏であるという「凡夫即極」の法理こそ、従来の釈迦仏法の限界を突き抜けた日蓮仏法の真髄である。その哲理は例えば「当体義抄」には「能居・所居、身土、色心、俱体俱用、無作の三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは、日蓮が弟子檀那等の中のことなり」(六一七頁)と説かれている。また「御義口伝」には「末法の『仏』とは凡夫なり、凡夫僧なり。『法』とは題目なり。『僧』とは我ら行者なり。仏とも云われ、また凡夫僧とも云わるるなり」(一〇六七頁)と述べられている。
日興門流においては南無妙法蓮華経を初めて弘通した日蓮を南無妙法蓮華経と一体の久遠元初自受用身とするが、自受用身は日蓮だけではなく、妙法を受持した万人が久遠元初自受用身とされる(日寛「観心本尊抄文段」)。日蓮仏法においては万人が日蓮と同じく南無妙法蓮華経の当体であり、根源仏なのである。従って、日蓮を久遠元初自受用身とするのは日蓮の神秘化・神格化であるなどと批判するのは全く見当外れの誤謬であり、むしろ色相荘厳の仏を永遠の本仏として崇拝する態度こそが神秘思想に傾斜するものとなろう。
経典制作者が作り上げた観念に過ぎない釈迦仏を根本視し、それによって救いを得ようとする在り方は阿弥陀如来や大日如来に救済を求める態度と同様に完全に無意味であり、生命を歪める結果しかもたらさない。日蓮を釈迦の「使い」として貶める態度は、曼荼羅本尊の中央に「南無妙法蓮華経 日蓮」と大書し、釈迦・多宝を左右の脇士の位置に置いた曼荼羅本尊の相貌と完全に違背している。それは日蓮仏法を根底から破壊する大謗法と言わなければならない。
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